イギリスがアヘン戦争勝利以来155年もの間植民地として統治し、1997年6月ついに中国へ
返還された香港は現在、『中華人民共和国香港特別行政区』と正式名称を変え、16年が経過
した今も一独立国家のように存在し続けています。

私が初めてこの地を訪れたのが1985年秋、勤めていた会社で催されたクリスマスパーティーの
ラッキードローで引当てた旅行券を使って、家内同伴での久し振りの旅行でした。

それまで全くと言っていいほど香港についての知識は無く、おまけに正確な位置さえも知らなか
ったものですから機上からその全容が見えた時、そこに少々興奮気味な自分が居たのよくを覚え
ています。そして、その興奮の頂点はあの世界的超難所でパイロット泣かせな旧啓徳国際空港
へのスリリングなランディングにありました。

ハラハラ・ドキドキが収まらない中スポットへとタクシングする機内へ突如、なんとも言えないあの
ドブにも似た匂いが立ち込めてきました。今から想えば香辛料の八角同様、当時の香港の『香り』
でもあったのですね。毎度の事ながらこの香りが鼻にツンと来ると、「ああ、またやって来たんだ」
と実感するわけです。



がなり立てて怒っているように聞こえる広東語が飛び交う窮屈で、しかもババッチィ雑踏の中を
恐る恐る歩き、すれ違う人からはさも親の仇とでも言いたげな視線を投げかけられたりして、正直
第一印象は最悪でした。

ひょんなことから縁あって度々訪れることになった後は、あの竹とプラスチックの紐だけで組まれ
た足場とクレーンで建った超高層ビル群と共に発展を遂げてきた経緯を目の当たりにすることに
なります。ちなみに香港の鳶職人はマジシャンの何者でもありません。

世界の金融と貿易に多大な影響力を持つようになった繁栄の裏側にはまた、この地の未来を
案じまさに流浪の民と化した香港人の姿がありました。



右が新しい香港の旗で中央は言わずと知れた五星旗


富裕層の間では一時住み慣れたこの地を離れ、早々とカナダやオーストラリアのパスポートを
取得して再び舞い戻ってビジネスを継続するという「移民スタイル」が流行りました。この移民
手続きをビジネスにして大儲けした者も随分居ることでしょうね。

1997が近づくにつれこの移民スタイルに乗れなかった香港人の焦り方には一種異常なものが
ありました。とにかくあたかも中国に力ずくで占領されてしまうかのような言動と行動が蔓延り、
一種のパニック状態に陥っていました。それだけ香港人の中国に対する信頼感の欠如というもの
が露呈した形でした。

そして迎えた返還の日には、当時の国家主席李鵬氏らが出席する華やかなセレモニーが執り
行われ、大きな混乱もなく静かに中国の特別行政区となった香港でした。返還後も中国人の香港
への入境は厳しく制限され、暫くの間は依然と何ら変わりのない香港が私の眼前にはあったよう
に思えました。

ところが、そんな香港もある時期を境に刻一刻と『中華色』に染まって行くのでした。