嗚呼、これが厄年なんだ!! [留学生日記]
順調にラストスパートを駆けていた私にとって少々厄介だったのは、1983年は輝かしくもまた
記念すべき年であるはずだった反面、厄年の厄男でもあったということでした。
ラグビーの練習は皆勤ではなかったものの、リーグ戦が継続していたので試合には出場してました。
チームの基本方針として、練習にきちんと参加した者から試合への出場機会が優先的に与えられる
というものがありました。特例を除いては当然の事です。
その特例とやらを創ってしまったのが、どうやら私だったようです。
期末試験にはもう少しだけ時間があったある日曜日、私は友人Bらと共にワードウェアハウスの
チャウダーハウス(現在はもう有りません)で生意気にもブランチをとっていました。
この週は全然練習に出れていなかったのですが、控えとしては試合へ行くのは当然でしたので
ブランチの後はB達も一緒に試合を観戦に来ると言う事になり、優雅に好物だったシュリンプサンドと
ニューイングランド風クラムチャウダー(ボストン・クラムチャウダーとも言う)に舌鼓を打っていました。
試合の前にしてはちょっと食べすぎでしたが、どうせ控えだから出場の機会は無いと高を括っていた
ので、あまり気にも留めずに食後のコーヒーをゆっくりと楽しんでから、試合会場のカピオラニパーク
へと向かいました。
この日の対戦相手はサモアン100%の強豪チームで、我がハワイ大をもってしても、かなり苦戦を
強いられる相手でした。
いつものようにプレイングマネージャーのゲイリーを中心に円陣が作られて、先発メンバーが順次彼の
口から告げられ、そのポジションの背番号が入った試合用ジャージが手渡されます。
左プロップ(1番)・・・、ナンバーエイト(8番)・・・、スクラムハーフ(9番)・・・、
フライハーフ(10番)・・・・・・・・・・・・、
私にはゲイリーがなぜここで沈黙するのかと思うぐらい、彼の間が長く感じられたのでしたが、次の
瞬間でした。
フライハーフはトフっ。お前がやれ。
他に〇Xとか居るんじゃないの。なんで?
と思った時にはすでにフルメンバーが発表されていたようで、私もその流れに沿ってしまって、気が
付いたらすっかり試合の準備が出来上がっていました。
確かに当時の私はバックスならスクラムハーフ以外は、どのポジションでも無難にこなせる、いわゆる
ユーティリティー・プレイヤーだったので、チームにとっては重要な役目を背負っていたのかも
知れません。
思わぬところで私の登場となったので、友人たちは来た甲斐があったと喜んでくれ、まあ結果
オーライでいいかっ、と自分に言い聞かせ、いつもよりも念入りにストレッチを行なった後
ウォーミングアップへと入って行きました。
案の定、試合直後から厳しい展開となったのですが、前半を15分ばかり過ぎた頃だったでしょうか
わが方にチャンスが訪れたので、私はここでサインプレーを使おうと思い、バックスにその旨指示を
出しました。
私の手からボールが右側の見方へと離れ、サインプレーが成功したかに見えたその瞬間でした。
相手チームのディフェンスが遅れ気味に、パスをした直後の私に体当たりタックルを仕掛けて
きたのです。
反則と紙一重のこのプレーによって左肩にかなりの違和感を覚えたのですが、そのままプレーを
続行し、次に私がパスを出そうとした時、左腕が痺れて動かないことに初めて気が付いたのです。
何とか片手でパスをしてその場をしのぎ、次にプレーが途切れた時にすかさずレフリーに待ったを
かけたのです。
ゲイリー、もう無理っ、交代させてっ。
心配そうに傍へ寄ってきた彼にそう告げ、レフリーの許可を得てフィールドの外へ出ました。
友人たちも心配そうに近づいてきたので、手伝ってもらってジャージを脱いだらなんと、左肩の一部が
陥没してるではないですか!
咄嗟に私はBに彼を連れて行った病院へ行って欲しいと頼み、チームメイトにその旨を伝てカピオラ二
公園を後にしたのでした。
勝手知ったる病院です(あまり嬉しくはないですが)。
幸い処置室が空いていたのですぐに診てもらえました。
レントゲン検査をしてから簡単に左腕をサポーターのような物で固定した後、ドクターの診断と説明を
聞きます。
怪我は〇△X骨折だね(実際の名は忘れました)。
今日のところはこれしか処置のしようがないんだけど・・・・・・・。けど、何なんですか、ドクター。
君、これから将来結婚して、子供をもつんだよね?
だからどうだと言うのですか?
このまま後日、別の処置をして、治せなくもないようなんだけど・・・・・
けど?
生まれてくる子供に、『高い高い』、してやりたいだろ?
それが多分、このままだと・・・・・、 間違いなく出来なくなるね。それじゃあ???
直ぐに手術した方がいいな。執刀は私がやるから。
、、、。
悪夢としか思えない!!
それ以外になんとこの状況を呼べばいいのだ!!!
もう直ぐ期末試験だというのに。いや、それより卒業はどうなる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・?
頭の中が真っ白になってから我に返るまで、どの位経ったのかはわかりませんが、気が付いたら
ドクターに『一日考えさせて欲しいと』、とお願いしてたようでした。
アパートに車ごと連れて帰ってもらってから直ぐに実家へ電話を入れ、事の顛末を母親に伝えました。
あんた、やっぱり厄年やったなぁ、今年。
最後の一言はこう締めくくられていました。
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