嗚呼、ハワイ大ラグビー部 [留学生日記]
その存在はカピオラニ公園を通るたびに分っていました。
明らかにラグビーのゴールポストがそこにあり、楕円球を追っかける荒武者たちの姿を目にして
いたからです。
以前は無かったはずなのに、何だやってたのか!!
新学期が始まって直ぐのある日、用事で通りかかったアメフト部のサブ・グラウンドでやっている
ではありませんか。ちゃんとした練習を!
普段なら通ることのないこの場所、これはきっと、私にやりなさいと言う暗示だったのでしょうか?
吸い寄せられるようにコーチらしき人の所へと近寄づいて行きました。
自分の周りの環境を変えたかったのと、彼らのプレーの質の高さに感心させられ、カリフォルニア
でやっていたナンチャッてラグビーの時には湧いて来なかった闘志みたいなものが、今回はメラ
メラとやって来たのです。
自己紹介がてら自分のラグビー経歴を交えてその人と話をして、早速翌週から参加させて貰う
事になったのです。
ハワイ大の名を語っていますが、僅かな補助金を受けるのみの言わばクラブチームです。
プレイヤーの数は結局最後まで分りませんでしたが(選手登録されていても練習に来ない者が
多いと聞いていた)、その構成は学生と大学職員が全体の半分ぐらいで、残りはホノルル在住の
社会人のトンガン(トンガ人)達です。
学生は私と同じ海外からの留学生と、現地の白人及び日系人の大学院生で、遠くはるばる
ポルトガルからやって来て、海洋学の修士課程を専攻している者もいました。
練習は基本的に月~金毎日このグラウンドで行い、週末はリーグ戦の試合や大会、練習試合を
カピオラニ公園でやっていました。
ワイキキ側から見るとこのグラウンドの存在は分りませんが、ず~うっと公園の中を歩いて行くと
野球場も有ったりと広大な公園なんですよ。
ラグビー通の方なら分ると思いますが、同士のトンガンをはじめサモア、フィジーは大変ラグビー
の盛んな国です。これにオーストラリアやニュージーランド、アメリカ本土やイギリスからと、さな
がらちょっとしたワールドカップ並みに、このハワイへ大会や遠征でやって来るのです。
当時まだパンナム(パン・アメリカン航空)が存在していた時は、オフィシャルスポンサーとなって
パン・パシフィック・ラグビートーナメントが開催されていたんですよ。
この時は日本からもクラブチームが参加していました。
お金の都合さえ付けば、遠征先候補に二言はありませんよね!
特に、ノーサイド後のパーティーやバーベキューを楽しみに試合をやるっていう連中もいました
から。
さてここでちょっと、トンガ人の仲間の話をしましょう。
彼らの多くはハワイで生まれ育ったのではなく、母国から移民或いは仕事でやって来ました。
職種で圧倒的に多かったのはポリネシアンダンサーです。
ポリネシアン文化センターが主な就職先で、さすがファイヤーダンスは旨かったです。
他にワイキキのホテルと興業契約している者もいました。
正直言うと、英語は皆あまり得意ではなくて、コミュニケーションはもっぱらブロークンのピジョンと
教えて貰った片言のトンガ語とのチャンポンでした。
性格は明るいんですが、どことなくシャイで無口。ただ、仲間内では母国語でいつも冗談ばかり
言い合って笑っている典型的内弁慶さんです。
体格は言うまでもなく皆、優に100㎏は有りそうな筋肉の塊です。名前は忘れましたが何とかと
言う木の樹液を毎日飲んでいるらしく、チームに馴染み始めた頃キャプテンのラオが私に飲めと、
家からわざわざ持って来てくれたことがありました。
たちまち仲間が集まって来て、口々にニヤニヤ笑いながら、何やら私に向かって言ってるのです。
言葉と一緒に見せるポーズを見ると、その意味は簡単に理解できましたが、『お前ら、大阪の怪
しいスッポンエキスのコマーシャルみたいやなぁ!』 そう突っ込みたくなるのでした。
ん~ん、まずい!!
どこかのCMではありませんが、苦くてとても飲み干せた代物ではありません。 がしかし
残してしまった分をキャプテンのラオがいとも簡単に、それも旨そうに空にしてくれて一件落着。
今から思えばこれが何とかの杯で、やっと私も彼らの仲間として受け入れられたのではなかった
のでしょうか?
残念ながら飲んだ量が足りなかったのか、翌日その効果が現れることはありませんでした。
私の苗字は、彼らとて簡単に発音できたはずなんですが、どうしてもあだ名を付けたかったらしく
有り難く頂戴したそのあだ名と言うのが
ト・フ・2
なんだと思います?
トフ=とーふです。日本人から連想できるのがどうも豆腐(トーフ)だけらしいです。
せめてサクラとかサムライとか無かったんですかねぇ。
2と言うのは、実はチームに先輩日系人のゲーリーと言うのがいて、彼もまた有り難いであろう
トフ1を拝命していたのでした。
トンガン達はトフがナンバーツーまで出来たのがたいそう嬉しかったようです。
もうひとつ、トーフがどうしてトフになるかという説明が必要ですね。
トンガ人の名前を見ればよくわかることなのですが、キャプテンのラオをはじめマヌ・キリ・モヌ
など彼らの名前は大体二文字で、苗字は◯◯◯ケハというような5文字が典型的なトンガンの
名前なのです。
じゃあこの際、私も自分でトンガン風苗字を高貴なトフの後に付けてやろうと思い、考えたのが
ト・フ ア・カ・サ・タ・ナ ですよ
ハマヤラワでもよかったんですが、アカサタナの方がトンガンらしいでしょ?
そんなこんなで、馴染み込み始めたこのトンガン達をはじめ、チームメイトと共に卒業までの約
1年半数々のエピソードを生みながら、楽しくラグビーを再開できることになりました。
バディー、日本上陸 [留学生日記]
深夜便の予定が明け方のテイクオフとなり、羽田経由の旅が一層長くなってしまいました。
若干一名、それを苦にもせずに、まだ見ぬファーイーストの近代国家に思いを巡らせ、隣席でひとり
興奮している私のバディーを除いては...。
荷物の数の関係で伊丹空港には姉夫婦が出迎えてくれたので、非常に助かりました。
阪神高速と一般道を乗り継ぎ実家までのストレート行程。やっぱり車は便利でいいわ。
途中に何度もコンパクトな日本家屋を目の当たりにしていてくれたおかげで、我が家の前に立っても
さして驚いた様子がなかったトムでした。場所が大阪の郊外だったので開放的な雰囲気がそう
させたのかも知れません。
その夜は日本式歓迎パーティーでおもてなし。トムには生まれつきの持病があって、食べる物に
かなり制限があったのですが、母親には事前にNG食材を伝えてあったのと、魚主体のご馳走
だったので、見ただけでも健康的に見えたのでしょうか、彼はたいそう日本食がお気に召した
ようでした。この日から母親が調理する料理全てに興味を持って、キッチンで観察するぐらいです。
ちなみに彼の大好物となったのはなんと、目刺とししゃもだったんですよ!
私が外出する時は勿論必ずトムを連れて行きましたし、大阪や京都・奈良と言った月並み観光も
忘れずにやりました。訪れた名所旧跡に堪能したのは言うまでも有りませんが、特に私が連れて
行った食事が気に入ってしまったようです。
食い倒れ大阪。当然です。タコ焼き、お好み焼きに焼きそば、炉端焼きに関東炊き(おでん)、すし
らーめん、串カツetc。何と日本と言う国は食べ物がバラエティーに富んでいるのか! とは
彼の最大の関心事でもありました。二度漬け禁止の大阪文化もちゃんと教えておきました。
ちなみにタコ焼きやお好み焼きなら町場でも、充分に美味しいものが食べられるし、観光気分で
串カツが食べたくなったら、通天閣でビリケンさんの足の裏でも摩ってから、周りの店へ飛び込んで
ベタ大阪気分を味わうのも乙なもんですよ。 お嫌いじゃあなければですが...。
万博を経験している大阪でも当時はまだまだ外人さんは珍しい存在。と言うか間近で見る機会が
少なかったからだと思いますが、英語で喋っているとあっちからチラチラ、こっちからチラチラとやたら
熱い視線を感じるのでした。まだ若い私が流暢に喋っていたこともあったのでしょうか!?
この時ばかりは優越感に満たされて有頂天気分でした。
そうそう、けがで入院していた高校時代の友人を見舞った時は、友人が同室の人達に自慢げな顔を
していたのを覚えています。『どうョ、俺も国際的だろ?』と言わんばかりでした。
大阪城では私がちょっとトイレへ行っている間に、フリークライムが趣味だったトム君が石垣でそれを
始めちゃって警備員さんからイエローカード。そう言えば実家でもやらかしましたわ。
京都の祇園祭、山鉾巡行の見物へ行った時はあまりの人の多さに酔ってしまい、急に具合が悪く
なってしまったりと言う事件も有りました。
*祇園祭と言うと7月の半ばですよね。と言う事は彼は少なくとも2か月近くもの間、大阪の実家に居たと言う事ですよね。
どおりでこの期間中に就職先の目途がつかなかったわけだ!これを書いていて初めて気が付きました。*
関西地方を堪能したであろう相方を連れて、次なる目的地東京へと移動することになりました。
大学の友人も帰国しており、彼の弟の誘いもあって何故かみんなで、あの私ゆかりの名門K大学
テニスサークル軽井沢合宿に(名前だけでもチャライです)参加。
圧倒的に参加者の多かったジャパニーズ・ギョールに、トムの顔も次第にほころんでまいります。
果たしてこの旅で、この恋多き男の運命や如何に?
私たちが宿泊したホテルはスイスの湖畔を模した南軽井沢で、当時人工池の周りには三越デパート
もあったほど賑やかな所で、軽井沢絶頂期でもあったのではないでしょうか。
現在は多少改修されてはいるものの、当時の面影は全くありませんね。
ただし、閑静さは戻って来たので、別荘地らしくなったとは思うのですが、いいかがでしょうか?
当時、テニスの真似事をしたコートは今でも残っていますが、いつも淋しくたたずんでいるだけです。
東京へ戻ると今度は、友人の友人たちが入れ替わりでトムの相手をしてくれました。
その内の誰かが連れて行ってくれた〇泉のとんかつに彼はハマった様子でした。
また、会話に入れない時のために持参していたペーパーバックに、ドラえもんの表紙を誰かに
付けて貰って、彼がそれを読む所どころで、周りの笑いを誘っていました。
東京の名所旧跡をカバーし、おまけに軽井沢まで足を延ばせたトムはご満悦で日本を去ることに
なり、そして今度は羽田空港での本当に懇情の別れとなったのでした。
以来30年という月日が過ぎ、現在は前にもお伝えした通り、彼を探し当ててメールのやり取りを
してまして、特にSF小説家となった現在、彼の執筆第一弾パート4のネタを提供しているところです。
この物語の中で、日本人の登場人物として私を扱ってくれるらしく、今から楽しみにしています。
ひとり大阪へと戻った私はすっかり遊びボケて、就活どころではなくなっていましたが、一念発起して
ハワイからアプローチしていた候補を、残り時間の全てを費やして潰して行くのでした。 が
結果はご想像のとおりでして、唯一この私に期待をかけてくれていたのは、前回出稼ぎに戻って
来た時、私に美味しい通訳の仕事をくれた親戚のおじさんでした。
有り難い話です。しかし、極力甘えないよう自分の力でなんとか探し当てるよう頑張るしか
ないのでした。
心身ともに疲れた状態でハワイへと戻った私ですが、新学期も控え心新たにこの時は勉強の事だけ
に集中して行こうと、ただでさえ誰しもが心ユルユルとなってしまうこのハワイと言う土地で
自分の心をとにかく一つにまとめ上げていく努力をするのでした。
島内観光‐松竹梅 [留学生日記]
観光グレードの違いは所要する時間で違ってきます。
所要する時間イコール、アテンドする時間です。
今回トムの様な時間にタップリ余裕がある場合に適用するローカルスペシャルメニューは例外として
ほとんどの場合は島内ドライブプラス夜景ツアーで構成されました。
オアフ島は残念ながらぐるりと一周することはできません。
カエナポイントという島北西の岬で道路が寸断されているからです。
カエナポイントにはディリンガム飛行場などの軍関係施設が多いため、立入禁止と
なっているのでしょう。確か手前のモクレイアの町までは行けたと思います。
ですからノースショアまで足を延ばした場合は、ハレイヴァ(ハワイ語ではwaの発音がヴァになり
従って正確にはHawaiiはハヴァイになるのです。)から南下してホノルルへと戻るコースを取ります。
ちなみにこのカエナポイントを島の西側から目指した場合、私の記憶が正しければ、道路はその名も
ズバリYokohama Bay で終点となります。手前には有名なMakaha Beach がありますね。
後方にたたずむマカハ・バレーが非常に美しいあまり混雑しないビーチでした。
ワイキキを起点としてひたすらどこかの番組ではありませんが、海沿いを走るルート(大回り)は
ほぼ1日コースとなります。
カピオラニ公園からダイアモンドヘッドの先端を回って高級住宅地カハラを抜け、ハワイカイ
ハナウマベイ、ココヘッド、シーライフパークがあるマカプウ岬を経由してカイルアへと向かいます。
途中にあるハナウマベイ。30年前はそれはそれは綺麗なビーチでした。バーベキューもオーケーで
ローカルスペシャルの一つでした。
現在では見る影もないと言っても過言ではないでしょう。
相変わらずたくさんの観光客で賑わっていますが。
マカプウ岬の途中にはブローホールや、運が良ければホエールウォッチングも出来る展望台や
そしてブギーボードのメッカと言ってもいいでしょう、サンデービーチがあります。
駆け出しの頃、私はここで危うく波にのまれて死にそうになり、以後一歩も近付いていません。
ハナウマベイから下り坂となるこの辺り、天気が良ければ本当にハワイにやって来たと実感できる
私のお気に入りの一つです。
カイルアの町の手前には、我がハワイ大の海洋研究施設などがあるラビットアイランドや、たぶん
今でも水はきれいだと思うワイマナロビーチがあります。近年、情報誌などでこの辺りのビーチが
結構紹介されていますね。私は個人的にその先のベローズ・ビーチパークがお気に入りでした。
カイルアの町も色んなショップが出来たりして、メジャーになりつつあるんでしょうか!?
ここでこの大回りにはちょっと時間が足りない場合、カイルアやカネオヘまでのショートカットとして
ホノルルからPali又はLike Like Highwayを使います。これが中回りです。
中でもパリ・ハイウェイにはヌウアヌパリという強風で有名なスポットがありますね。
そう言えば一昔前のハワイツアーは、ホテルへチェックインするまでの時間潰しで必ずここへ
やって来ました。そのほかダウンタウン傍にあるパンチボールを見物した後、◯◯ファッションと言う
ハワイアンファッションのお店へと連れて行かれるのでした。全く懐かしい話です。
カネオヘを経由して北上していきます。海岸線に沿って走る片側一車線の83号線を走ります。
カハナ湾にあるチャイナマンズ・ハットを目印に行くと、その手前にカアアワと言う所があります。
ここの山側にクラウチングライオン・インというホテルがあります。岩の形がライオンの姿に似ている
ところからの由来ですが、当時、ここのレストランで食べるテリヤキビーフサンドは最高でした。
2月に行った時30年振りに食べようと思ったのですが、どうやら久し振り過ぎて通り過ぎてしまった
ようです。中国のおじさんが被っていた帽子の形をした島(岩?)が目印になるでしょうか。
さらに北上していくとお馴染みポリネシアン・カルチャーセンターが左手に見えてきます。
ライエ、カフクを過ぎると、いよいよサーフィンのメッカ、ノースショアが前方に現れてきます。
と、その前に、カフク岬の先端にはタートルベイ・リゾートホテルがあります。北の最果てのホテル。
色んな名前で呼ばれてきた経緯はありますが、田舎でのんびりとハワイアンバケーションを
楽しむにはもってこいの場所かも知れません。
83号線へ戻ればサンデービーチやバンザイ・パイプラインなど、言わずと知れた名所の連続です。
あいにく私はサーフィンとは非常に距離のあった人間でして、後は情報誌に委ねることにします。
その先のワイメアには滝があって公園となっていますので、マイナスイオンが必要な方はお出かけ
下さい。ワイメア・フォールズパークです。
ターニングポイントのハレイヴァには、これも言わずと知れたシェーブドアイスのお店がありますね。
何回も行ったことがあるのですが、一度も食べたことないんです。30年前から人気がありましたよ。
ここでホノルルへと南下して行くわけですが、第三のルートは回らない往復です。限られた時間しか
無い場合、H1とH2フリーウエイを使ってノーズショアまで来てターンアラウンドします。
途中ワヒアワにはこれも有名なドールプランテーションがあり、ちょっと休憩で立ち寄るには
日本のサービスエリアみたいでいいかもしれません。
その先は都会っぽくなって来るパールシティーの街並みや、アロハスタジアムがあり、ああ、帰って
来たなと言う感じになるでょう。
この三本のルートを使い分けながらの案内をやっていまして、そのほか4番目のルートとして
冒頭に登場した西海岸沿いのマカハビーチ方面があります。
H1を西へ走り切ると、世界で十何番目かのディズニーリゾートとして再出発したコオリナ・リゾートが
あったり、ウォーターパークがあったりと、今後、家族連れには楽しめるエリアとなるでしょう。
私に遠慮してか、トム君は一人で車に乗って出かける時も有り、パールハーバーをはじめ地図を
片手に走り回っていました。
私の友人も彼には良くしてくれて、およそ10日間あまりの滞在でオアフ島を満喫したに
違いありません。
期末試験が終わった数日後、予定よりかなり出発が遅れた日本への機内でしたが、彼は思いっきり
余韻に浸ったまま二人は珍道中を続けるのでした。
おまけになりますが、ハワイ最終日用の観光としてタンタラスの丘・ホノルルシティーライツ・ツアーを
やっていました。今ではオプショナルとしてこのツアーがあるようですね。
私のアパートの近くからちょっとしたワインディングロードを登って行くと、アラモアナ、ワイキキ、マノア
そしてダイアモンドヘッド方面が一望できる丘があります。
ここを訪れた人たちは皆、絶対にまた来たい、と必ず思ったことでしょう。
それほど、短い滞在を美しい夜景と言う形で総括して想い出に深く残してくれる、そんな特別な
スポットだったと思います。
そして、あいつもやって来た! [留学生日記]
プルル~、プルル~、プルル~。
さあ、夕食の仕度でもしようかと思っていたところへ、一本の電話が入りました。
" Hallow, OX☐△! "
久し振りの英語の電話みたいです。 聞き覚えのある声が受話器を通して耳にやって来ました。
" Tom ? " 確信を持って聞き直します。
以前カリフォルニアの大学の寮に住んでいた時のルームメイトからでした。
そうです。Good-bye Calofornia 篇で懇情の別れをしたバディーのトム君です。
どうやらこの年の冬学期に無事卒業したらしく、9月の新学期からサンディエゴ大学のMBAへ
進学すると言う事でした。
それで、彼まで卒業旅行と洒落込みたくここハワイへやって来ると言うのです。
私が就活でこの夏休みに帰国すると言うと、それなら自分も是非足を伸ばしてついて行きたいと
言い出しました。
ん~ん、ずっと日本に居るわけではないから、就活の邪魔にはならないだろうと思い、引き受ける
ことにしました。
ただし、この時すでに期末試験を2週間後に控えてましたので、試験中はあまり一緒に遊んで
やれない旨を了承して貰った上ででしたが...。
それより、日本まで足を延ばすのでパスポートは絶対に忘れないようにと、付け加えておく事も
忘れずに。
結局トムはそれから10日後位に、沢山の荷物と共にホノルルへやって来ました。
しかし、アメリカ人てどうして荷物を小分けにして、ああもたくさん持って旅行するのでしょうかね?
ちょうどタイミングよく車を持っている友人が、一足先に試験を終えてネイバーアイランドへ旅行に
出掛けるから車を使っていいと言ってくれましたので、事無きを得ず無事トムを空港でピックアップ
することが出来ました。
サンフランシスコ空港で固いハグを交わしてから約半年...、 しか経っていません。
が、満面の笑みと共にバゲージ・クレイムから出てきたトムを見ると、固い握手をしないわけには
いきません。
それに、一応彼もハワイへの観光客ですので、プルメリアのレイもサービスしておきました。
テストが間近で充分なアテンドが出来ない事を今一度謝りつつ、私が相手できない分、暇がある
友人達がガイドお役を買って出てくれました。
持つべきものはやはり友。トムは今でも彼らの事をよく覚えているのには驚かされます。
そして、殺風景な私の部屋は見る見るトムの荷物で、賑やかになって行くのでいした。
さて次号は、初めてハワイへ来た友人・知人への、私達なりのオアフ島観光ガイドを交えて
お届けします。ただし、30年前の話であることを一言断っておきますよ。
ハワイに居ると増えるもの [留学生日記]
結構日本からやって来ます。
友人・知人の類が入れ代わり立ち代りで。
「そのまた誰それ」まで入れたら、ネズミ算式にあっという間に増える事間違いなし。
あれは中間試験の最中でした。
朝から電話のベルが鳴るので一寸、いぶかしげに受話器を取ると、聞き覚えのある大阪弁が
いきなり耳に飛び込んで来ました。
お~ぉ、〇X△☐、俺やぁ、わかるかぁ。 今、ワイキキからや。出て来いや。
中学時代の友人二人が卒業旅行と称して、アメリカ本土へ行く途中のトランジットでハワイに立ち寄り
接続に時間があるからワイキキまで来たと言うではありませんか。
2時間位しか無いけど出て来いと言うのでした。
「ストレートの連中はもう卒業かぁ」。そう思いつつこれから学校で試験なんだと言って丁重にお断りし
その代わりと言っては何ですが、ギリギリまで近況を話しあって受話器を置いたのですが
これが後生今日まで、事あるごとに酒の席で、「あの時のお前はホンマに薄情だったわ」と二人から
なじられる始末です。
全く間が悪いだけの話だったのに。
また、早い者だともう新婚旅行でやって来ます。
こっちはまだ学生なんですけど。
でも、友人は既に社会人。キッチリおごってくれるのは大歓迎。
大体、親姉妹は以前住んでいた頃にもう来てしまってるので、後は親戚縁者かと思いきや
これが意外にも全くと言っていい程、訪問者が無かったのです。
その代わりと言っちゃあなんですが、一番多かったのは友達の友達、またその知り合いです。
みんなやっぱりハワイが大好きなんだなぁ。
でも、オアフの事はよく知っていても、私の場合この時足となる車がない分、案内できる範囲は
たかが知れていたので、この足を所有する友人の出動を要請しなければなりません。
不思議な事にこれら訪問者の男女比率は、何と圧倒的に女子の方が多かったんですよ。
だから、友人たちも非常に快く引き受けてくれました。
女子の訪問者が多いのは? よく考えてみると非常に解りやすい方程式がそこにありました。
つまり、私の友人達は皆、気になる女子達にこう言ってたに違いありません。
「俺の友達が今、ハワイにおるから、行くんやったら紹介したるわ。」
聞かれてもいないのになんで先に言うかなぁ。
「えっ、ほんまに? 紹介して、紹介して...すごいやん!」
ところがこれが男連中だと、きっとこうなってたんです。
「今度の休みハワイ行くんやけど、誰か友達とかおれへんの? 人伝いにおるって聞いたんやけど。」
「なんかの聞き間違いやろ!? そんなん、おれへんでぇ!ぜんぜん。」
ほんと、どうしようもない奴らですわ。まったく。
しかしこれが、次の学期辺りから私の周りでも、どんどんと同じようなケースが増殖して行くのでした。
この時日本では既に、ハワイブーム到来の兆しでもあったのでしょうか?
人脈が広がっていく事に賛否両論はありますが、果たして私にとってはどっちだったんでしょうか?
生存競争に勝利するためには [留学生日記]
すったもんだの引っ越しの末、精根尽き果てそうになりましたが、ここで負けては残された2年は
やっていけません。ここは気持ちをスッキリと切り替えて、やっと一人になれた部屋で次なる作戦を
企てるのでした。
ある日の放課後、いつものように新聞の不動産欄で物件を物色していると、一軒非常に気になる
出物が目に入りました。
Makiki Area, Studio, Utilities incl. OX△☐ Garden
以前ホノルルに居た頃から目を付けていた物件で、大学が近い閑静な住環境の古いアパートです。
でも、オートロックが付いているのですよ!
古い割にはその人気の高さから、家賃は少々高め。でも部屋は広くて快適だと、以前住人であった
友人から聞いたことがありましたので、それが頭の隅に残っていたんでしょう。
早速キャンパスの公衆電話から問い合わせをしてみましたが、応対したオーナーらしき女性から
現在30名ばかり問い合わせと内覧希望を受けているが、それでも構わないならとつれない返事が
帰ってきましたが、一か八かのチャンスに賭けてみようと思い内覧を申し出ました。
流石、大人気物件。競争率が高すぎる。
後日指定された日時に現地へ内覧に出掛けると、日系人らしき女性が応対してくれました。
どうやら過日の電話の主らしい。
早速部屋を見せてもらったところ、友人が言っていた通りで、古いけど広くて良さそうなワンルーム
プラス大きめのシャワーとトイレ、そしてもちろんキッチン付でした。
自分の素性と、どうしてもこの部屋を借りたい旨のプレゼンテーションを行ない、後日の連絡を
待つことになりました。
連絡と言っても携帯電話があるわけではないので、指定された日時にこちらから電話する手筈です。
現在の短期契約の終了が一週間後に迫り、更新するかどうかの瀬戸際だったその日、満を持して
オーナーへ電話を入れ結果を伺ったところ
あなたに決めたわ。ミスター〇X△☐。詳細と契約は後日現地でどう?
やった でも、どうして私に決めたのですか?
あなたがUHの日本人留学生だからよ。
えっ、そうなんですか? とにかく有難うございました。
電話を切った後も興奮醒めやらず、しばらく傍のカフェテリアで一人感慨にふけるのでした。
これでやっとこの地に根を下ろせる。そう思うと昨年末、カリフォルニアの大学を出てからしばらくの間
同じ場所でゆっくりと過ごしたことがなかったことに気付き、大きな安堵感も一緒に
やって来るのでした。
その昔、邦画で日本人サラリーマン達が紛争地域へ海外出張に行き、戦闘の真っ只中を日本国の
パスポートを見せながら、一列になって逃げて行く場面があった様に記憶していますが、ハワイでは
やはりジャパンブランドが信用の証になるのでした。しかもハワイ大へ留学していると聴いてすっかり
家賃滞納の心配もないと思ったのでしょうか(金持ちのボンにでも見えたのか!?)。
電話を契約し、台所用品や掃除道具を最低限買い揃え、友人B宅から預けていた荷物を引き取り
何とか生活を始めるには準備できたようです。
生活費を切り詰めるためには自炊が一番と、大学の帰りによくスーパーに立ち寄り買い出しをした
ものです。ただ、一週間分となると紙袋を両脇に抱えることになるのがかなりきつかったです。
以後、ほぼ自炊で頑張った反動か、結婚してからこのかた私が料理で台所に立つなんてことは
ありませんが...。
私のアパートは現アメリカ合衆国大統領バラク・オバマ氏が卒業した名門プナホウハイスクールの
近くにあったので、ひょっとしたら彼とニアミスしていたかもしれませんね。
これをネタに依然友人に冗談をメールしたら、本当に信用されて困ったことがありました。
ある日プナホウの傍のバス停で待っていたら、オバマ少年が私に近づいて来ていきなり$1札を
私に差出したので、「Yes, I can change !!」と私が答えたと言うくだりなんですが...。
住むところが落ち着くと、こうも気持ちまで落ち着くものかと、ひしひしと実感させられるそんな一連の
出来事でした。
勉強にやっと集中できるようになり、数少ない旧知の友人とも親交を深めていくうちに何時しか
私の周りには予想はしていたものの、ハワイ大マノア校の朋友をはじめ、たくさんの日本人留学生が
居ることに気が付いたのでした。当時でもこんなにたくさん留学していたのかと、ちょっと驚きでした。
また、少数ですがクラスメイトのロコや香港からの留学生とも親しくなりはじめ、カリフォルニアとは全く
異なった環境が出来上がりつつあるのでした。
トランスファー(転校)で失ったほぼ一学期分の単位を挽回しつつ、専攻単位を履修すべく南国での
涙ぐましい戦いの火蓋が再び切って落とされました。
お~ぉ、ダブルブッキング [留学生日記]
年がまた明けて、新居探しに戻った私の目に一つの物件が留まりました。
ワイキキ至近、ストゥ―ディオ、ミニキッチン付、光熱費込、短期契約可
アパートと言うよりも長期滞在者用ホテルと言った方が正しいでしょう。
ワンルームタイプのコンドミニアムと言うところです。
ワイキキに近いと言うのはあまり気に入りませんが、とりあえず友人の所から出て大学へ行きながら
腰を据えて新しい所を探せばいいやと早速電話を入れたところ、明日部屋を見せるから来れるか
と言うので、二つ返事でオーケーしました。
次の朝、ワイキキの入り口付近にある物件へと向かいました。
建物の中に管理事務所があり、そこで話をしたわけですが、広告の物件はまだ使用中とのことで
同じタイプの部屋を見せてくれることになり、そこへ案内されました。
この時、別段このことは気にも留めることは無く、担当者の説明を聞くまででした。
一週間後に部屋が空くので、もし気に入って貰えたのなら、本日仮契約と言うのはいかがかと
オファーがあったので、最初から1か月だけと決めていたし、もし万が一にも安住の物件が
見つから無くても、契約を延長すればいいだけの事と思い受け入れることにしました。
友人Bに頼んでとりあえず必要のない荷物を、もうしばらく預かって貰う事にして、当面の服と
身の周り品だけを持って引っ越すことになりました。こんな時、ハワイって服要らずで便利ですよ。
鍵を受け取り、荷物を持ってそのまま部屋へと上がり、ドアを開けたその時でした。
私の視界へ飛び込んできた光景とは...。
誰が見ても分るくらい、まだ誰かがこの部屋を使っていること明白!
一体どうなっとんねん!!
怒り心頭、即刻階下の管理事務所へ抗議に向かおうとしたその時でした。
見覚えのある顔が開けっ放しのドアの所で、キョトンとこちらを見ているではないですか。
おおお~、〇〇、ここで何やってんねん ?
そっちこそ、なにやってるの?
まこと、間の抜けた会話の始まりでしたが、お互いの事情・状況説明をして初めて事の顛末が
判明しました。
私の前に突然現れた先住人は、語学学校時代一緒だった知り合いで、彼もまた私と同じように
仮住まいでここに居ると言う事でした。
つまり簡単に言えば、管理事務所の大チョンボで、一週間後に出ていく人と彼とを取り違え
私と契約したと言う事です。
じゃあ空いてるはずの本当の部屋を直ぐに用意して欲しいと、事務所へクレームを入れに行った
ものの後の祭りで、その部屋は既に他人の手に。
あいにく他に空き部屋がございません。もしよろしければ賃料をディスカウントいたしますので
お知り合いのお二人でシェアされると言うのはいかがでしょうか。
こういうカウンターだけはしっかりと返してきやがるな。まったく。
開いた口が塞がらないとはよく言ったもので、無理矢理シェアさせられそうな知り合いも大変です。
何と言う不運な再スタート。
今後一体どうなるやら。
契約を破棄し、友人Bの所へ事情を説明して戻ることも出来たのですが、勢いよく出て来た手前
そうも行かず、平謝りの担当者を前に知り合いが一言
自分が出ていくのでその代り契約を中途解約し、重なった期間はそのディスカウントをしてくれ。
おいおい、それでいいのかほんとに?
意外な展開となってしまいましたが、ここはお言葉に甘える事にしてその場を収拾することに
なりました。学校も既に始まっていた自分にとっては、この知り合いの「お裁き」にただただ
敬服するのみでした。
その後一週間程、一緒に居たその知り合いと以後二度と顔を合わせることは、こんなに狭い
ハワイでも無かったのが不思議なくらいです。
これで厄逃れ出来たんだと自分に言い聞かせて、安住の物件探しは勉強の合間に続くのでした。
何かシックリ来ない? [留学生日記]
おかげでゆっくり休めた翌朝は、朝から精力的に活動開始です。
まず、ホノルル・アドバタイザーやフリーペーパーの不動産賃貸の欄で、目ぼしい物件をチェック。
カリフォルニアと同様に大学の寮と言う手もあったのですが、いかんせん大人気の場所だけに
なかなか空きがなく、最初から諦めることにしていました。
結局友人も心当たりは探ってくれたのでしたが、住むのは私本人ですから、やっぱり自分の足で
見つけないといけません。
勿論、友人は見つかるまで自分の所に居ていいと言ってはくれましたが、私としてはどうしても
学校が始まるまでには、決着を見ないといけないと言う焦りがあったのでしょう。
目的の部屋は大学の周辺で、バス1路線で通学できるエリアに有る、ストゥーディオ(ワンルーム)
タイプでシャワーとトイレ、それにキッチン付きで光熱費込の物件です。
土地勘は昔取った杵柄で、まだまだ冴えていましたから、消去法で探していけました。
しかし、時期が悪いのか、なかなか良い物件に出会うことが出来ません。
ましてや既に大晦日も迫っていたので、ここは年明けまでじっくり新聞とにらめっこと決め込みました。
幸いハワイもアメリカですから、1月は2日からみんな活動を開始です。
以前ここの学校で一緒だった友人は、既にそのほとんどが帰国してしまい、B以外では唯一
あと1名同じくハワイ大へ進学してるくらいで、すっかり様変わりしてしまったようです。
相変わらず日本人留学生はだくさん居るそうで、Bも大学外で沢山知り合いがいるとのこと。
ハワイに居る限り、避けては通れない日本人社会との繋がりですから、ここは着かず離れずが
ベストチョイスでしょうか。寮にでも入らない限り、なかなか日本人以外の友人をつくるのは難しい
ハワイなのです。あとはクラスメートとか校外活動で知り合うとか。方法はあるのですがね...。
この期に及んで英語の更なる上達を目的に、日本人を避けるなんてこだわりはなかったはずなのに
すっかりカリフォルニアのあの生活に慣れ親しんでしまったせいか、何となく違和感はありました。
実はこうした自身の気持ちが、ハワイへ戻るかどうかの決断を鈍らせた張本人でもありました。
帰って来てしまった以上この際ですから、自分のスタンスはしっかりと取っておこうと
そう決めたのでした。
逸る気持ちをここはちょっとだけ抑えて、来る新年1981、酉年に備え食糧の買い出しへと向います。
日系人が集まる所ではさすがに年の瀬だという雰囲気が漂うところは、カリフォルニアとは一味も
ふた味も違ってるのでしょう。
野郎二人の年越しですが、お互い飲むのは決して嫌いな方ではないので、今宵は積もる話でも
しましょうか。
さすが、日本の食材は豊富だわ。でもロミロミサーモンやアクやタコポキも最高!
ゆく年、くる年、そして二人の明るい未来に乾杯!!
ホノルル・シティーライツよ再び... [留学生日記]
少しばかりウトウトとしたのでしょうか、飛行機は既にホノルル空港着陸の為の降下を
始めているところでした。
夕食を境に私の頭はハワイモードへと切り替わって、これからやらなければいけない事へと思いを
馳せるのでした。
- まだ決まっていない住居の手配
- 留学生課と学生課へ行って転校の最終手続きと履修単位の移動最終確認
- 春学期のレジストレーション(クラスの受講手続き)
- ブックストアで教科書その他必需品のの購入
- そうそう、実家への無事だよコール
直ぐに思いついただけでもこんなにある。授業が始まるまであと2週間。何とかなるのか?
そんな焦りを一瞬にして吹き飛ばしてくれたのが、私を見送ってくれたあの、
Honolulu City Lights
およそ2年振りでみるやさしい光。 あ~あ、帰って来たんだぁ。
住み慣れた場所と言う月並みな理由はこの際当てはまらず、流浪の民のごとくあちこち移動
して来た今の私にとって、もはや上記1番を除き、何一つ不安(怖いもの)などありませんでした。
よほどの風向きの変化がない限り、ホノルル空港へ離着陸する飛行機は全てその頭が
ダイアモンドヘッド側へ向いています。
この夜も例に漏れず、私の乗った飛行機はスムーズにダイヤモンドヘッドへと流れて行きました。
荷物をピックアップして空港ターミナルから一歩外へ出ると、心地良い涼しい風と、今晩から少しの
間世話になる友人Bが出迎えてくれました。
ハワイと言えど1月は意外にも朝晩は涼しく過ごし易くなるのです。海に入るのが冷た過ぎる事も。
久し振りで会う友人も変わりが無さそうで、他の共通の友人達の近況などを聞いている内に
ものの20分ほどで彼のマンションへ到着です。
やっぱり、ハワイはチッコイなぁ(小さい)!!
30数階建ての友人のマンションは1ベッドルームの贅沢な造りで、まさにセレブそのもの。
うわぁ~、ここでもいいんだけどなぁ。 そう言う訳にはいかんか!?
リビングには遥かカリフォルニアから太平洋を渡って来た私の荷物たちが、偉そうに鎮座してるのが
見えたので、「程なく撤去いたしますので」と申し訳なく思い弁解をしてみる。
リビングの床に腰を下ろした途端、ドッと疲れが出て来たらしく、友人が差し出してくれた缶ビールも
道半ばで空にすることなく、そのまま失礼して爆睡の世界へと旅立ったのでした。
明日からはまた忙しいわ。ムニャムニ...グゥー。
And good-bye California ! [留学生日記]
寄り道無しのストレイト・ドライブだったので、夕刻トムの実家へ無事到着。
パパとママが熱烈に歓迎してくれました。パパは口髭を着けたらマリオ、ママはマンマと言う愛称が
ピッタリで、二人ともその人となりが体中からにじみ出ていて、気楽に溶け込ませてくれました。
トムの実家は閑静な住宅街にあって、周辺にはあの名門私立大スタンフォードをはじめ、当時は
まだ発展途上だったシリコンバレーの企業群、そしてこのエリアでは最大の都市サン・ノゼが
あります。あのサンフランシスコも車でちょっと行ったところにあるのですね。
そして忘れてはいけないお決まりのローカル・ショッピングセンター。テナントの種類やその規模は
場所によって違えど、アメリカのショッピングセンターへ行くと必ずデジャブーになるのは私だけ
でしょうか? 時節柄、あちこちにクリスマスイルミネーションが上品に輝いていました。
我々も各々クリスマスプレゼントをゲットすべく、結構大きめのこのショッピングセンターをぶらつく
のでありました。私はパパとマンマへ、トムはもうすぐ帰ってくる兄さんと姉さんへも購入。
肝心の我々同士は今更バレバレなので割愛し、その代り後日二人で飲みに行くことに。
イブの夜はマンマお手製のローストチキンをメインにスープや野菜そして最後はデザートと
いう感じで、特別な日だからと言っても本当に素朴で質素なアメリカの食卓なのです。
食後はめいめい自分の食器の後片付けをするのがシィオリ家の習わしで、キッチンのシンクまで
運ぶと、あとはマンマがディッシュウォッシャーでちゃっちゃと洗ってくれます。
食後はいよいよお待ちかね、プレゼント交換であります。ホームドラマさながらの光景をライブで
楽しめました。クリスマスと言えばアメリカ最大のイベントなのは当然ですよね。
特別な日に離れ離れになっている家族が一同に会し、神に感謝し、そして絆を深める。
一昔前の日本の正月三が日も、私の記憶が正しければこんな感じではなかったかと思うのですが?
私はパパとマンマからカウボーイハットを貰い、今でも大切に保管しています。
私は確かマンマへ、ショッピングセンターで見つけた日本の酉の飾り物(来る1981年は酉年)を
パパには何を...、ああ、思い出せません。残念。
特段何をする訳でもなかったのですが、あっという間に時間だけは過ぎてしまい、暮れも押し迫った
午後、当日の夜のホノルル行きを予約してあった私にそろそろお別れを言う時がやって来たようです。
トムの車に荷物を積み込むのをパパとマンマも手伝ってくれ、道路まで見送りに出て来てくれました。
パパと両手でしっかり固い握手をしたあとマンマへ体を向けると、マンマは二言三言言いながら私を
やさしくハグしてくれました。その眼には涙を一杯浮かべてくれて、思わず私も熱いものが込み上げて
来そうでした。
サンフランシスコ国際空港までの道中はパパとマンマとの別れの余韻もあってか、ターミナルビルへ
到着するまでかなり静かだった様な気がします。
ホノルル行きは当然ながら国内線です。この辺りからようやく私はトムをイジリ始める余裕が出てきて
セキュリティーチェックまでは二人でバカを言い合っていたのでしたが、さすがセキュリティーゲートを
くぐらなければいけない段となった時、急に寂しさと言うものが襲って来て何か神妙になって
しまいました。
右も左も解らなかったこの留学生の面倒を見てくれ、本当にいろいろと世話になったくらいしか
言えなかったようですが、ここはお互いしっかりと固いハグをして懇情の別れを告げるのでした。
セキュリティゲートをくぐり出発ロビーへと入る前に今一度、バディーの顔を拝み大きく手を振りました。
「いい顔してるじゃないか。懲りずに沢山恋をしろよ!」と胸の中でささやきながら今度は本当に
おおきに、さいなら!! バディー。
着席してシートベルトを締め、大きく息をはき出して気持ちを落ち着かせていると、近くに居たCAが
大丈夫かと言わんばかりの顔をして、気にかけてくれました。
まもなく離陸した機内から眼下に目をやると、そこには思い入れ満載のサンフランシスコの夜景が
広がっていて、それはそれは綺麗でもう感無量でした。
San Francisco City Lights
来る時も帰る時も趣きこそ違えど、想い出に耽るには持って来いのシチュエーションです。
色んな出来事が次々に頭の中を過ぎってフラッシュバックして行くのでした。
カリフォルニア篇はこれで終了です。
次回からの南国ハワイ篇をお楽しみに