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天空の友、トンガン [留学生日記]

基本的に言ってチームユニフォームのうち、試合用の上着ジャージ(当時はその名の通りジャージ)は
ボールやその他のチームの備品類と一緒に運搬しますが、短パン、試合用ハイソックス、スパイク
等は個人の管理とされていました。
練習着も基本はジャージなので、これだけでもさすがにビニール袋を一杯にしてしまいます。
その他着替えの下着に服、グルーミング道具などをパッキングすると、立派な荷物になってしまう
のですが...。

この大きな疑問を抱えてチームメイトの一人、マヌのビニール袋の中身を覗かせてもらうことに。

おっ、お~ぉ。それすらも入ってない !

下着らしき物体と替えのTシャツ、タオルと目に付いたものはこれだけ。
あとはどうしたんだぃ? とジェスチャーとブロークン・イングリッシュで聞いてみるのですが
ケラケラ笑って取り合おうともしません。
しつこく食い下がると、仕方ないなぁと言う顔をして
ある方向を指さしました。

そこには英語で唯一コミュニケーションの出来る、トンガン・リーダーのラオが大きなズタ袋を傍に
置いて(アメリカ軍が持つようなカーキ色の縦長の布製バッグ)、こちらを見ながらこれまた
ケラケラ笑っているではないですか。
トンガンと言う人種は実によく笑う。たぶん、いや、絶対にストレスありませんよ。あれは。

どうやらラオが、リーダーとしてみんなの私物の殆どを一元管理してたのでしょう。
大正解だと思いました。
そんな私たちのやり取りを傍観していたゲイリーと他の白人メンバーでキャプテンのジョンが同時に

Welcome to our tour, TOFU ! with big [わーい(嬉しい顔)][わーい(嬉しい顔)]

*どうして私がTofeと呼ばれてるのか、この号からご覧の方は恐れ入りますが「ああ、ハワイ大ラグビー部をご参照ください。

何とか無事に?各々ボーディングパスを貰ってゲートへ移動となったのですが、このまま大人しく
トンガン達がしている訳がありません。
まず、セキュリティーでシコタマ係りのポリネシアン系のお姉さん(たぶん同朋)をからかってから
(相手も楽しそうだった)ようやく通過して、何処へ行くのやらと目で追ってみると、ハハ~ン。
お目当てはどうもビールらしい。
おやッ、でも先導してるのはゲイリーら白人組。今からこれじゃあお金の方も大変だわ。

実際に、ハワイからメインランドへの航空券代と言うのは、一端の海外旅行くらい掛かるものです。
団体割引が有るのでしょうけど、それにしても3週間もの日程なので、宿泊や食事代などを考えると
決して途中でビールなど飲んでいる余裕はないはず。
遠征費として支払いは一括して事前にゲイリーへしてあったのですが、あとは自分の小遣いを
持ってくるよう言われただけでした。

まさか、こんな途中寄り道も込みなのか!? 

そう頭の中を過ぎった瞬間に、私の足は既にみんなの方へ向かっているのでした。
(実際はゲイリーの名誉の為に、割り勘だった事を付け加えておきます)

ほろ酔い気分で着席した我々でしたが、幸いかなサンフランシスコ行は割と空いていました。
その分、大男達にとっては狭っ苦しいエコノミーの席を贅沢に使え、5時間超におよぶロングフライト
でも、疲れることなく過ごすことが出来ました。

反対に気の毒だったのは言うまでもなくCAで、サービスは満席に近いものを要求される羽目に。
ただし、アメリカの航空会社のCAは百戦錬磨のベテラン揃いです。片言の英語しか話せない
トンガン達は赤子の如く、手のひらに乗せられて軽くあしらわれていました。見事に玉砕!

そんな彼らをよそに、だんだんと近づいてくるアメリカ大陸とカリフォルニアの情景が視界へと入り
始めた時、何とも言えない懐かしさが胸の奥底から込み上げて来るのが分りました。

おお~、戻って来たぞぉ。

サンフランシスコの街並みがはっきりと見て取れる頃、私の感動は頂点に達していました。
そんな感慨深げな私の表情を見て取ったのか、傍に寄って来たニューヨーク出身のマイク(白人)が
話しかけて来ました。


ハゥ・ゼッ・トフ! (How is it, Tofe のピジョン版)


掻い摘んで彼に私の過去の話をしたら、この場所が自分にとって特別な所だと解ってくれた様子で
邪魔したなと言わんばかりに私の肩をポンと叩いて、自分の席へと戻って行きました。

ふと我に返ると、トンガン達の無邪気な騒ぎ声が耳に戻ってきて、今度はゲイリーがCAに代わって
彼らの標的となっていました。
おいおい、これからまだ乗り換えてデンバーまで行かなきゃいけないのに。[あせあせ(飛び散る汗)]

                                  ウェスタン航空OOO便サンフランシスコ行機内にて

つづく


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人生、一回コッキリだから [留学生日記]

内容のかなり濃かった春学期があっという間に終わり、ついにアメリカで過ごす最後の夏休みを
迎えることになりました。
それと同時に、我が家の恩恵に預かった友人第二号がまた一人、日本へと元気よく羽ばたいて
行きました。


当の私はと言うと、夏休みの間に2回ある夏期講習を両方目一杯受講して単位を稼げば、来る
年末には無事卒業できるところまで漕ぎ着けたわけですが、夏休み無しでぶっ通し受講するのは
正直言ってかなり大変な作業でした。

また、履修科目ではないのですが、卒業を半年延ばしてでも、どうしても取りたかった科目が
あったので、さあ困った、ここは正真正銘の思案橋ブルースとなってしまいました。
元をたどればあのネコの一件以来、いわゆる『業界』の仕事に私の興味の矛先が傾倒して来ていた
ので、マスメディア及び広告の世界の扉をどうしても垣間見ておきたいという衝動に駆られました。

また、それに加える事大きく、我がハワイ大ラグビー部は夏休み前半の3週間、コロラド州の
ボルダ―(日本のマラソン選手がよく合宿しているところ)で行われる大きな大会への参加を含め
ロスアンゼルスへの遠征も決定していた事もあり、大いに頭を悩ます事態となってしまいました。

go or not to go(stay or not to stay), this is the question [ふらふら] 

究極の選択ではありましたが、こんな機会は恐らく今後私の人生で訪れることは無いだろうと、そう
思った時には既に両親の承諾を取り付けるべく、電話のダイアルを回していました。

後期夏期講習受講の為、ロスアンゼルス遠征は残念ながら不参加としましたが、2週間にも及ぶ
コロラド遠征は実に有意義でしかも大変愉快なものとなり、全くもって正しい決断だったと自己満足に
浸るのでした。
特に初体験となる我がトンガンのチームメイト達と寝食を共にする全行程は、大変興味をそそる
ものでした。

 

ボルダーまでの道程はホノルルからサンフランシスコ経由でデンバーまで飛び、そこからは迎えの
バスでボルダーへ入ると言うものです。同じアメリカ国内でも半日を要する長旅となりました。[飛行機]

やっぱり、アメリカはデッカイ [むかっ(怒り)]

ホノルル空港にはトンガンをメインに白人アメリカン、フィジアン、そしてジャパニーズの総勢17・8名
位だったと思いますが、なんとか試合が出来る人数のメンバーが集合です。
ここでハタといつもとは違うあることに気付きました。

トンガン御一行がジーンズ履いてるョ! それに裸足じゃあないし!! [がく~(落胆した顔)][爆弾]


 

と言うのも、彼らの殆どが練習や試合に出て来るときの出で立ちというのが、Tシャツとトゥペヌという
腰に巻く布、そして巨大な裸足だったからです。
中にはビーチサンダルをたまに履いて来る者もいましたが、腰布と巨大な裸足は私にとって彼らの
トレードマークでもあったわけです。それともう一つ、豪快なアフロヘアもありました。

さすがの不死身達も、これから向おうとしている標高2000メートル超の高地へは、いつもの格好と
言う訳には行かなかったのでしょう(さすが、裸足で飛行機乗るのはちょっと...)。
冷やかしてやると、ほんと照れ臭そうにはにかむ姿はなかなか可愛らしかったです。[わーい(嬉しい顔)]

レイングマネジャー兼コンダクターのゲイリー(白人)の号令なんかちっとも聞いていない、不慣れな
恰好をした(させられた?)トンガン達はまったくもって幼稚園児のようにはしゃぎ回り、ゲイリーを
いつものように手こずらせます。
彼らの殆どがこの時初めてメインランドへ行ったので、無理もない話なのですが......。

やれやれ、これからこの先、いったいどうなることやら [ちっ(怒った顔)][ふらふら]

そしてもう一つ、彼らの手に収まっている日程の割にはコンパクト過ぎるその荷物にも、私の視線は
釘付けとなってしまったのです。

ビッ、ビニール袋一個だけかい [がく~(落胆した顔)][がく~(落胆した顔)][がく~(落胆した顔)]

そっ、それに、その荷物、チェックインするん??


 

                                  戦慄のホノルル国際空港ウェスタン航空チェックインカウンター前にて

つづく [がく~(落胆した顔)]


タグ:トンガ王国
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夢をかなえそうな ネコ [留学生日記]

「おい、 起きろや」

突然そう言われて目を覚ますと、そこにネコの姿をした......、なんてパクリませんよ。絶対に。

あ~ぁ、でも思い出せない。ここまで出かかってるのに[グッド(上向き矢印)]あのネコの名前がぁ~...。[バッド(下向き矢印)]

実はそのネコと言うのは、前出の雑誌紙面上のハワイ特集第三弾で登場する主人公なんです。

ちなみに第二弾はネイバーアイランド特集とし題して、マウイ島の取材同行の話を貰っいた
のですが、あいにく試験の日程と重なっていた為、友人Bに代役をお願いしたところ、大変快く
引き受けてくれました。きっと私の第一弾の話が興味をそそったのでしょう。

さて、そのネコちゃんの話に戻すと、第三弾は『子猫のX◯△ちゃん、ハワイを行く』でした。
ここで、
かのなめネコを想像された方、全然違います。
子猫にビキニ着せたり、サングラス掛けさしたりなんかしてないですから。

ではどういう話かと言うと、当時世界中の有名な街を舞台に子猫の写真を撮り続けていた
写真家のSさんという方がいまして、次なるデスティネーションがこのハワイとなったわです。
記憶が正しければ、これもこの雑誌の企画モノで、シリーズ化されていたんだと思います。
第一弾の成果を買われて再度の依頼かどうかは分りませんが、引き受けさせて貰いました。

この雑誌の編集部もだいぶ羽振りが良くなって、きっとこのロケには[わーい(嬉しい顔)] フ、フ、フッ[わーい(嬉しい顔)]
予算が付いてるんだなあと、勝手な想像をしながら待ち合わせ場所へと出向くと、そこに一人の
いかにも今日ハワイに付きましたということ丸解りの、うら若きお姉さんがいたのでした。
いぶかしげに私はこう切り出しました。

あの~、◯◯◯の◯◯さんですか? ひょっとして、おひとり??.....ですか?
いえいえ、わたしは編集部の△Xと申します。

あ~、良かった! 一人じゃあないんだ。一寸ビビったぜ、まったく。[がく~(落胆した顔)]
なぜそこに写真家のSさんがいなかったのかは思い出せないのですが、打合せを進めて行く内に
一発カウンターを喰らったような感じになりました。

あの~ぅ、ネコの事なんですが、実はこちら.........で......
えっ [がく~(落胆した顔)] まさかまた、現・調ですか? [ちっ(怒った顔)][ふらふら] 

と、ここで怯んでいては私の名が廃る。幾多の難問難題を潜り抜けて来たのはこんな時のためだ。

分りました。レンタル出来そうな所をみんなで廻ってみましょう。

啖呵を切ったものの、Sさんのオメガネに適うキティーちゃんがなかなか見つからなくて正直
編集部の人と二人
ちょっと焦り出しましたが、Sさんは堂に入ったもので、一切の妥協は許すものか
と言わんばかりにNGを出しまくりました。さすがプロと言うかそれともただの頑固というか。[ふらふら]

やっとのことで見つけた真っ白なキティーちゃん。スケジュールは押せ押せのケツカッチン。
これを生みの苦しみと言うのでしょうか。
しかし、見つかったと言っても、この子の飼い主は赤の他人様。果たして言う事聞いておとなしく
カメラに収まりますかどうか。ここからが本当の我々の苦闘の始まりだったのです。

[るんるん]猫の目のょ~に気まれさっ。 ラ、ラララララ ラ~ラ ニャーォ。 by 皆川おさむ

撮影前半は皆さんのご想像通り。
しかし後半に入ると、私や編集部のお姉さんの苦労が理解できて来たのか、突如として、モデルに
変身し始めたではないですか。ちゃんとカメラ目線も出来てたし。
それよりも一緒に居る間に、片言の日本語ぐらいは解る様になったんでしょうかね。
レフ板右手、ネコジャラシ左手に彼女の名前を一万回以上は呼び続けた、汗と涙の結晶の終劇を
何とか無事に迎えることになりました

ラグビー2試合分に匹敵する体力を優に消耗した私でしたが、第一弾と言いこの第三弾と言い
お手伝いの域は越えてませんが、自分はまんざらこういう仕事が嫌いではないと言うか、正直
ピッタリと向いているのではないかと、ベッドの上に寝そべりながら未だ耳から離れない、あの
キティーちゃんの名前をBGMに、そう思い始めるのでした。

この経験とネコのパワーが果たして私の近未来の人生に、どのような影響をもたらしたのか??

あ~ぁ、それにしても、どうしてあの子の名前が想い出せないんだろうか。[ふらふら]


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これってけっこう、凄くないです? [留学生日記]

ハワイにいると来訪者が増えると以前に書きましたが、今回の場合、何処でどうやって辿り着いたか
定かではなのですが、私のところへ一件の依頼事がありました。

日本の出版社小〇〇がこの度創刊した、女性ファッション情報誌〇o◯・◯o◯で、ハワイ特集を
組みたいので、ぜひ取材に協力してほしい。

つまり、私がハワイ現地のコーディネーターとして取材のお手伝いをすると言うものです。
運転手兼、通訳兼、案内役兼、ネゴ役兼、撮影助手兼・・・と役割を挙げて行けば最後は「パー」と
言いたくなる位ケンケンしなければならない、そんな仕事の依頼でした。

この雑誌、今となれば、かのエビちゃん・モエちゃんをはじめ数々の有名人を輩出した女子大生の
バイブル的存在。[かわいい] アラ50のお母さんなら一度は当時、お世話になったのではないでしょうか。
でも、当時出版社の名前は知っていても、この雑誌の事など知る由もありません。
それに先方からのリクエストが、現地の現役日本人女子大生2名だの、取材場所は決定しているが
許可が未だだから現地で直接交渉して欲しいだの、と言う大きな注文付でした。

なんや! 丸腰で来るんかいな!! この大手出版社が!!! [ちっ(怒った顔)][ちっ(怒った顔)][ちっ(怒った顔)]

創刊して間もないだけに予算もキューキューだったのは百歩譲って解るけど、留学生を使えば
超安上がりと言う事だけは、しっかりリサーチしているところがこれまた憎いっ。 [ふらふら]
しかし、頼まれたらイヤとは言えない...方の性格、ここはいっちょ一肌脱ぎましょっ!

以外にも編集部の結構お偉い方が、たった一人で、撮影機材一式持って日本からやって来ました。
3/4ほぼ丸腰というところの雰囲気で
、この人がきっと自分で企画した特集だから、なんとしてでも
成功させねばならない、そんな殺気さえその人には漂っていました。
ということは、この私も責任重大ではないかいな!? これはちょっと、真剣に取り組まなくては。

今と大いに違って当時のハワイ、何処へ連れて行ってあげても新鮮そのもの。だから紙面に載れば
喰い付き抜群のはずだと私は確信していました。
ワイキキのショップやディスコにビーチ、アラモアナショッピングセンターなどは事前に撮影が予定
されていたスポットでしたが、ここから先が実は私の腕の見せどころだったんです。
島内観光篇でご紹介した大外回りの松ルートで、これも私が手配した2名の友人現役女子大生と
一緒に撮影ドライブへと向かいました。
ところでこの二人、よく考えてみるとエビちゃんよりもずっとずっと前に誌上に登場した、モデルさんと
なったわけですよね。 [ひらめき][ひらめき] 藤原紀香や米倉涼子、長谷川京子などの女優よりもいち早くに!

余談ですが、この時車を買ってから初めて、ガソリンタンクが満タンとなったのには正直、心底
感動し、GSから出版社の人をホテルへ迎えに行く時は、いつもより二人ぐらい余計に乗っているような
これが満タンの重さ感覚なのかとしみじみ味わったのでした。 [わーい(嬉しい顔)]

確か撮影及び取材は3日間ほどで無事に終了したわけですが、なんとこの日を境にしてその後
第二、第三、そして第四弾まで(私が関わっただけでも)ハワイ特集は続いて行くのでした。
つまり一年の間に4回特集したと言う事は、四半期に一回はやってたと言う計算になりますし、もっと
突き詰めて掘り下げて行くと、第一回の反響があまりにも凄かったので、続編決行
に至ったと
こう言うことになりますね。協力者としてあくまで楽観的に捉えるとですが......。

私の記憶が正しければ、第四弾では再びこの第一弾の立役者さんがホノルルに再登場したのです。
それも今度は他のスタッフを従えての格上げ取材で(相変わらずモデルは現調でしたが)。
だからやっぱりこの人の企画、当たってたに違いないです!!
だとすると、

これって(俺って?)けっこう、凄くないですかぁ [exclamation&question]

*卒豪後、帰国して就職したての頃に、この出版社へあの方のお誘いで尋ねた後、手厚く接待していただきました。

取材第三弾へとつづく


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ファンミと夜更かし反省会 [留学生日記]

たまに車の中でFMラジオを聴くことがありますが、やはりパーソナリティーは声が商売ですから
そこそこイイのが流れてきますよね。
それで、この声の主っていったい......、なんて思ったことありません?
公開生放送なんかで実際に生パーソナリティーを見たり、ホームページでチェックしたりと、現代では
この様な事がいとも簡単に出来てしまいますが、当時はこれと言った手段が無く、唯一、リスナーと
パーソナリイティーを結ぶ生の接点と言うのが、局主催のファン感謝デーだったのです。

過去にも幾度となく開催されてはいたのでしょうが、どうやら、とうとう初めて我々にも局から
参加要請が来ました。
毎週末、バカ騒ぎしとる張本人はこいつらだ!とでも示しておきたかったのでしょうか!?
とある週末、アラモアナ公園だったと思いますが、リスナーを招いて運動会とトークショーを
行ったのです。
なんで運動会なのか? ファンとの絆をより深めるため?

さぞや体力が有り余っていると、過大評価してくれた局側が我々に用意した出し物は、ズバリ

おぶって、走って、ジャンケンポン ゲ~~ム [がく~(落胆した顔)][もうやだ~(悲しい顔)]

希望者?の中から選ばれたリスナーを我々がおぶって徒競争し、最後になぜかジャンケンをする?
そんな訳の解らん出し物でした。
私の背中には幸いにも小柄な中学生の女の子がいました。駐在員の娘さんの一人で我々の番組の
大?ファンだそうでした。他の友人たちも同じような背格好の子をおぶっていたので、この出し物は
お子ちゃまファンサービスだったのですかね。
そう言えば、あの子はいったい今どうしてるんでしょうかね?いいお母さんになってる年齢だと
思うのですが...。

この後、息も整わないままステージ上へ上げられ、一人ひとり番組で何を担当している誰それと
自己紹介をやったのです。結構照れるもんですね。
ステージから降りてリスナーの中へ入って行くと、
「いつもニュース、聞いてるよ」とか「天気予報の音楽、あれイイね」とか日系のじいちゃん
ばあちゃんが声を掛けてくれるのです。
ほんと、有り難い話でした。この後リスナーからのサイン攻めに・・・なんて事にはなりませんでした。

ファンとの集いを終えて、ますます番組への取り組みにも力が入ってきた頃、番組終了後に必ず
と言っていいほど、寄り道して一服がてら夜更かしする所がありました。
翌日はブルーマンデーだと言うのにです。

その名も Zippy's です。

そうです。ジィップパック、チリフランク、そしてサイミンで有名なあのファミレス、ジッピーズです。
時間が時間だけに今挙げたメニューではなく、たった一杯のコーヒーで4~6人の日本人留学生が
少なくとも1時間以上に亘り、そこでくっちゃべっていたわけです。
普通なら当然嫌な顔をされ、一杯くらいのお愛想リフィールの後、放って置かれるのがオチですが
毎週日曜日の夜中の決まった時刻に出没する我々を、なんと、温かく迎えてくれる担当ウェートレス
さんがいました。 [もうやだ~(悲しい顔)][もうやだ~(悲しい顔)]

我々が案内されたいつもの席に着くと、程なく人数分のコーヒーが彼女の手で運ばれてきます。
「いつもの...」なんて言わなくてでもですよ。
しかもちゃんと頃合いを見て、笑顔で何度もリフィールに来てくれるんです。
我々のたかが知れてるチェックの金額からすれば、大したチップも期待出来ないのにですよ。
自ずとポケットの中の小銭全部、置いて来たくなるくらいな気持ちになりました。
あんまり長居した時などは、さすがに誰かが追加で注文するのですが、それもせいぜい一番安い
Zippy's Jelly くらいでした。しかしですよ、普通ジェリーの上のホイップクリームが一絞りのところ
なんと、三絞りも乗っけて来てくれる事すらあったので、頼んだ奴はそらもう大感激ですよ。
だから今でもZippy'sのそのお店は、たいそう懐かしくてたまらないのです。 [わーい(嬉しい顔)]

ところで一体全体そんな夜中にコーヒーだけで、何を長いことクッチャべっていたのかですよね。
吐露すると、反省会は名ばかりでして、最初の15分程度は確かにダメ出しやら何やらでしたが
その内にオートマチックモードで、次々と違う話題へと飛んで移って行ったものでした。
でも、新しい企画モノを考える時だけは、ちゃんとミーティングぽくなってましたよ。
そしてここから幾つもの伝説的な迷コーナーが生み出されて行くのでした。

普段は気付かず、気にもせずと恥ずかしい限りですが、我々は実に様々な形で心温まるこの
アロハ・スピリッツ に見守られてたんですね。[かわいい][ぴかぴか(新しい)]

 


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年男=当たり年 [留学生日記]

まさしく1981年は私の干支、そう、年男なのでした。
「一年の計は元旦にあり」、正月気分の無いアメリカでは、気持ちの切り替えが至って
簡単なのです。日系人の多いここハワイでも、皆2日から行動を開始です。

大学へ進んだ当初、私の基本計画ではこの当たり年に卒業する、と言う文言が一行ありました。
しかし、以前お伝えした通り、転校によって失われた単位が一学期分相当になってしまい、予定が
狂い出しました。
ただ、この一年間で多少の遅れを挽回することが出来て、夏期講習をダブルで受講しつつ、残り
2学期間をフル稼働すれば、難なく目標をクリア出来たのです。

でも、ちょっと待てよ。本当にそれでいいのか?

自問自答が始まります。
正直言って、学部の教科はどれも役に立ちそうでした。
現に4種類も受けた様々な簿記の授業は日本でも速戦力となり現在に至り(専攻では無いのですが)
マーケティングやファイナンスも会社を営んで行く上で大変役立っています。 [本]
そうそう、ドラッカーも忘れてはいけませんかね。

選択可能範囲以外の科目にも、実は興味深いものがあったので、ここは一つ、余裕と満足をもって
ニールブレズダルセンターではなくて、5月に本校キャンパスで卒業式を迎えたい。
そんな気持ちのウェートがどんどんと大きくなっていき、気が付いたら目標を半年繰り延べていました。
日本で就職することを考えると、タイミング的には12月卒業の方が何かと都合がよいのでしたが。
両親には更なる負担をかける事になってしまいましたが、人生最初で最後の留学体験になるのなら
なおさら残りたいと言う気持ちが強まるのでした。

気持ちに余裕が出来たからかどうかは知りませんが、この学期から新たに始まる事が多くなった
様な気がします。

前号でハワイでの日本語放送テレビの話をしましたが、ラジオにもK-ZOOとKOHOと言う二つの
日本語放送局がありました。[音楽] [ゲーム]
このKOHOで毎週日曜日の夜、我が家の恩恵を受けた第一号の学友ともう一人の学友がDJを
やっていました。この番組、どうやら彼らの先駆者から引き継いだらしく、ハワイ大の留学生が
ボランティアで(不法就労は強制送還となりますので)代々引き継き継がれて来たそうです。

KOHO自体のターゲット・リスナーは日系人の皆さん、ハワイへ赴任している人達とその家族
我々留学生、そしてこれは意外と思われるかもしれませんが、ハワイ近海で操業するマグロはえ縄
漁船の乗組員の皆さんで、通称、『御船のみなさん』です。 [船] [船]
番組のターゲットはその放送時間帯が午後9時から11時55分までと、深夜時間帯となりますので
若い世代の日系人と赴任家庭の中・高生、そして留学生と言ったところでしょうか。

たまに時間がある時、よく冷やかしで遊びに行ってたら、そのうち流れで、転校当時世話になった
友人Bとともに放送ブースの中にいることになったのです。
番組は日本のポップミュージックをリクエスト交じりで流したり、リスナーと会話したり、日本の最新
情報を伝えたりと、ちょっとオールナイトニッポンを意識した
感じだったでしょうか。
御船のみなさんをないがしろにしないようにとの、局からの要望もありましたので、気に入った演歌も
バンバン流してました。 サブちゃんに一郎さん、亜紀ちゃんと言う風に。

3時間にも及ぶ公共電波を我々日本人留学生に託すと言う、大胆な発想がハワイアンだなと思って
いましたが、よく考えてみると、安息日の日曜日に、しかも夜中の12時まで局に詰めていったい
誰が好んでこの仕事を引き受けるのだろうか?
故に、留学生が代々この番組枠を受け持って来たという回答へと至るのでしょう。

従って、何から何まで自分たちでやることに徹底していました。
番組中に放送するスポンサーCMとステーションブレイクの時間割のみ、きちんと進行表に記されて
ましたが、後ははっきり言って我々のやりたい放題。[爆弾]ただし、勿論、放送コード絶対遵守ですよ。
別室に局の責任者は居ましたが、一度たりともお叱りを受けたことはなかったと思います。

プロデューサ、ディレクター、ミキサー、タイムキーパー、そして放送作家。全部やりましたよ[exclamation×2]
しかしこの中で、タイムキーパーと言うのはいささかインチキ臭かったですね。
と言うのも、スポンサーCMもステーションブレイクも正直言いますと、きちんとオンタイムで放送されて
なかったのです。今思うと、かなり恐ろしい事ですが、これもハワイでの出来事。何事にも寛大な
土地柄ですから、恐らくエアチェックが入ってどうのこうのと言う問題にはなってなかった!?
そう 願いたいです。
 [がく~(落胆した顔)][がく~(落胆した顔)] ほんと、今更ですけど。

ただ、こんな我々でも絶対と言っていい程、時間厳守していたのがニュースと天気予報のコーナー
でした。
ニュースは勿論日本のです。天気はローカルですよ。
ステーションブレイクも自前で作成していたので、今まで殺風景だったこのコーナーにもちょっと
演出をと考えて、お天気のコーナーにBGMを流すことにしました。 アール・クルーです
このハワイ最終の日本語ニュースと天気予報を担当していたのは、何を隠そう、この私です。[わーい(嬉しい顔)]

[るんるん][るんるん]
それでは最後に、ホノルル、パールシティー、裏オアフ方面の明日の天気です。
                                                     [るんるん][るんるん]

残念ながらKOHOはもうハワイにはありません。

つづく


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本当のハワイ留学生活の話をしよう [留学生日記]

超難関であったアパートの駐車スペースをゲット出来て、私のハワイアンライフは日々進化して
行くのでした。
去る者が居ると自然にその足跡ではありませんが、我が家に何かを残そうとしてくれ、その殆どが
家財道具であったりするわけです。
ですから、殺風景だった我が家にも道具が一つ増え、二つ増えとなり、ついに念願のカラーテレビが
殺伐としていたドロウワーの上にやって来たのです。

ソニー・トリニトロンカラー 19インチ (後方に引き込み式アンテナ二本付)

別の友人の勿忘草です。
受信感度良好で、とてもオンボロには思えないほどのパフォーマンスをしてくれました。
1日の視聴時間と言うのは長くても2時間位で、お気に入りの番組がない限り見ない事も多かった
ように思います。
相対的に番組があまり面白くなかったこともありますが、唯一ハワイならではの日本語プログラム
であるKIKU放送は密かに楽しんでいたかも知れません。

古い番組であって、日本なら到底チャンネルを合わせないような(失礼![ふらふら] )番組でも、ここでは
貴重な?娯楽になっていたのでしょう。

  1. 暴れん坊将軍
  2. 火曜サスペンス劇場
  3. 柳生一族の陰謀

この辺りが割と欠かさずにしっかりと、夕食後や勉強の合間の娯楽として楽しんでいたのです。
勿論ディレーで放送される紅白歌合戦はこの年の大晦日に、それこそしっかりとお世話になりました。
学友たちも同じような行動パターンを持っていたらしく、キャンパスでランチ時の話題にもなったり
することがあって、さらに我々に混じって日本語が達者な日系の友人が混じると、こんな事でそこまで
盛り上がるのかと言う状態にもなります。
それだけ当時の我々は、単純でただただ素朴な留学生だったのかも知れません。
しかし、一人でテレビを見ている姿を改めて思い浮かべると、「淋しい」の一言ですよ。[もうやだ~(悲しい顔)]

その紅白もそこまでやって来た1981年の師走、こちらへ戻って来て早、一年が過ぎようとしています。
思えば初めて一人暮らしで迎えるクリスマスと正月でした。流浪の民にはならなくて済んだけど。
アラモアナショッピングセンターには例のジャイアントサンタクロースが登場して、センターにどっしりと
仁王立ちとなり、町中がデコレーションできらびやかに(?)なってくると、さすがに南国とあれど
今年もお仕舞いか、と言う気分になってきます。

さて、我がハワイ大ラグビー部ですが、クリスマス直前にロスアンゼルスよりUCLAを迎えて一戦
交えることになりました。
この時期にしかもハワイへ来れて、彼らもさぞこの遠征を楽しんだことでしょう。
まだまだ我々を打ち負かすには発展途上ではありましたが、なかなかてこずらしてくれましたよ。

試合の後、舞台をワイキキへ移して、今回UCLAと対戦した他のチームと合同で盛大なクリスマス
パーティーが催されました。
このUCLAチームの面々ですが、大学生の分際で生意気にも彼女同伴でやって来た者も多く
会場内は久し振りで白人の目立つアメリカンな雰囲気になっていました。
ハワイで彼女とクリスマスを過ごし、太平洋のど真ん中で愛を叫べば、自ずと盛り上がること
間違いないでしょう。 [ハートたち(複数ハート)] まったく。

このパーティー、我がチームの打ち上げも兼ねていたので、夜通し始終賑やかにみんな弾けまっくて
一年の労をねぎらいつつ、来る年に控えているメインランド遠征へ向けて、更なるパワーアップを
誓うのでありましt。

みんなぁ、お疲れさん & メレ・カリキマカ [グッド(上向き矢印)][わーい(嬉しい顔)]


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仰げば尊し、我が家の恩? [留学生日記]

ハワイへ転校して来てから知り合った日本人の友人の中には、早くも?卒業して行く者がいました。

当時のハワイ大の卒業式と言うのは5月と12月に執り行われ(今もそうですが)、12月の卒業式は
ホノルルのニールブレイズダルセンターでした。ちなみに5月はキャンパスです。

就労ビザがない限り当時ハワイ、と言うよりもアメリカで就職するのは至難の業でした。
従って、学生ビザで滞在していた我々にとって、卒業はイコール帰国を意味していたのです。
ただ、卒業式の翌日には出国しなければならないなんていう規則はありませんでしたから、そのまま
何週間かはハワイに留まり、最後のハワイを満喫しようとするわけです。

アパートの契約の関係で、どうしても帰国を前に引き払わねばならないのですが、その間の宿が
どうしても必要となってきます。
そこで何故か白羽の矢が当たったのが、何を隠そう私のアパートだったのでした。
帰国時に携帯する荷物と勿論、寝床の確保であります。

必要の無くなった物はどうしたかと言うと、まず、必ず仲間と一緒に毎週末に開催されていた
アロハスタジアムのスワップミートへ出店しました(水曜日にも開催されてたと思います)。 [ひらめき]
日本のフリマと同じです。ただ、規模は相当デカかったですよ。
現在でもオプショナルツアーかなんかで行けるんじゃあないでしょうか?レンタカーならもっと簡単に
行けますよね。

この時我がアパートから最初に巣立って行った友人には、どうしてもスワップミートでは売りさばけ
そうにない商品が残っていたのです。

ズバリ、彼の愛車でした。 [車(セダン)]

何年式かは忘れましたが、フォードの4ドアセダンです。結構デカかった。
ボディーは錆びた個所があったりしていましたが、エンジンと足回りはまだまだ丈夫でした。
予てより生活していく上での車の重要性は痛いほど認識していましたし、ラグビーの試合でよく島の
裏側へも出かけていましたので、ここは一肌脱いで私が引き受けようと決めました。
友人も勿論そうして欲しかったでしょうから、居候代を考慮しての値段交渉の結果と言う事らしかった
のですが、どうやら私の方が卒業祝いをあげてしまったみたいです(後日談として)。

と言ってもこの友人はメインランドへ旅行に出て、ほとんどハワイに居ることはなかったので、まあ
ツーペイと言ったところでしょうか!?
お蔭で私の生活範囲がググっと大きく広がって、まこと、水を得た魚の様でしたね。
一回の食材の買い出し量が増えて、小さい冷蔵庫一杯に買い置きできたことや、以前にもお話した
増え続けている、私を訪ねて日本からやって来る人達のアテンドの内容も激変しました。
一番助かったのはやはり試合が終わった後、疲れた体でカピオラニ公園からバスでアパートまで
バスで戻らなくてもよくなったことでしたね。 [わーい(嬉しい顔)][わーい(嬉しい顔)][わーい(嬉しい顔)]

車の維持費が大変安くつくのはハワイと言えど、車社会のアメリカですから当然の事なのですが
ガソリンだけはいくら安くても毎回必要な分として、5ドル程度くらいしか入れてませんでした。
考えてみれば30年前に私は既に、エコドライブの先駆者として活躍していたではありませんか[exclamation×2]

これを機に我が家からは82年5月と12月にそれぞれ、友人たちが旅立っていきました。
ただ、見送るだけならいいのですが、この第一号、せっかく酷寒のシカゴで仕入れてきたナイスな
ダウンジャケットを我が家に残し、12月の日本へと帰ってしまったのです。
最後まで落ちを付けて仕事を残してくれる、そんな友人は何を思ったのか日本のラーメン1カートンを
お礼として送ってよこしたのでした。


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海外で病気にならないためには [留学生日記]

皆さんは既にアメリカの医療費が日本と比べ、バカ高いと言う事はご存知ですね。
特に実際、病院のお世話になった方ならその違いがよく解ると思います。

留学が決まってからと言うもの、今から思い起こせば本当に病気らしい病気をして、医者の世話に
なることが無かったのです。
特段日頃から健康に留意して生活してたわけではありませんが、脳が自然と私の体に四六時中
「気ぃ付けなはれや、気ぃ付けなはれや」と、注意喚起信号を送っていたのかも知れません。

しかし、再び格闘技でもあるラグビーに足を入れた以上、病気よりも怪我をするリスクが数段高く
なりました。おまけに対峙するのは日本人ではない大男たち、それも秘密の樹液の申し子達も
いますので、怪我をしない方が不思議だったのかもしれません。

アメリカの医療保険制度は日本のそれとはだいぶ異なります。
細かい説明は置いておきますが、簡単にいうと日本の健康保険制度ではなく、医療保険のように
自分で保障内容を規定の範囲で自由に選択して購入すると言うものです。
われわれ学生には専用のイージーオーダーの医療保険があり、あらかじめ用意されたポリシーを
基に保障金額を選択します。
私が当時買い求めたのは月々今のお金で一万円くらいの標準的なものだったと思います。
この保険、最初は何かもったいないなと思っていましたが、大学生活も佳境に入った頃にその
威力を大いに発揮することになります。

アメリカと言えどもラグビーのグラウンドは芝ではなくダートでした。
試合が終わって家へ帰り、シャワーを浴びて初めてあちこちに切り傷擦り傷があるのに気がつきます。
殆どの場合備え付けの救急箱で事足りるのですが、腰骨の下に負う擦り傷、通称ハンバーグは
ぐずついてなかなか治らないのです。

医者へ行くには大げさだし、と言って放って置くのもなんだしと思った時に、強い味方がいたのです。
ハワイ大には医学部もあるので併設の診療所がありました。ちょっとした風邪や今回のような怪我を
診てもらうには最適でした。本校の学生であれば保険を使わなくても格安で受信出来ました。
有り難い事に、両方サイドにハンバーグ傷をこしらえこの診療所を訪ねた時のことです。

受付で症状の説明をして受付て貰い、待合室で順番を待っていると、エンジェルハットが凄く小さく
見えてしまう、それはたくましいハワイアンの看護婦さんが私の名前を呼び、診察室へと案内して
くれるのでした。

ミスター〇X △■、診察台にうつ伏せになってください。

言われるとおりにした瞬間、ムギュっとそのたくましい腕が私の短パンのゴムの部分を掴んだかと
思うや否や、ズルッとお尻の下までずり下ろされたのです。一瞬の出来事でした。

そっ、そんな、ごむたいナ [がく~(落胆した顔)][ふらふら]

ハワイはこんな気候だから、感染症には気を付けなきゃいけないのよ。
破傷風とジフテリアの注射をするからそのままでね。

破傷風は分かるけど、ジフテリア ?

同じ看護婦さんだと思ったら、もう一人ちゃんと女医さんが側にいたんですね。

そうこうしてる内に結構大き目の注射器を持ってエンジェルが戻ってきて、手際よくお尻と腿の
付け根をアルコールで消毒すると、一気に二本、立て続けにブスリとやってくれました。
傷の手当ても手際よくやってくれ、最後に薬の処方箋を貰って帰るように言った後にもう一言

なんか有ったら、またいらっしゃい。 がんばってね。 マハロー。

まったく明るい看護婦さんだこと。

大学の診療所とは、これは良いものを見つけたなと思いました。
こんな事が無い限り近付かない場所でもありますが、なんかひとつホッとした様なそんな気分に
なってアパートへと戻って来ました。
この時以来、再び診療所を訪れることはありませんでしたが...。


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恐るべし、香港シンジケート [留学生日記]

ダークな世界じゃあありませんよ。念のため最初に断わっておきます。


前にも書いたように、ハワイ大には大勢の香港人留学生がいました。多分そのほとんどは
School of Travel Industry Managemnet に籍を置いていたのだと思います。
彼らの実家は大体が地元香港の裕福な実業家であり、子供に海外留学をさせる事が一つの
ステイタスシンボルであったようでした(お隣韓国もそうですね)。

中国へ返還される前はご存じのとおりイギリスの租借地であった香港ですが、彼らの移民先や
留学先を見ても解りますが、カナダ、オーストラリア、そしてアメリカというように、イギリスからは
足が遠のいているのも面白い現象です。
そんな彼らとは必須科目の講義で度々顔を合わせることがあり、そのうち何人かと親しくなって行く
うちに色んな情報が耳に入るようになったのです。

元々英語で教育を受けてきたバイリンガルな彼らにとって(全ての香港人がそうではありませんが)
ここでの留学は我々日本人と違って、さして難しいものではなく、一日でも早く卒業して地元へ戻り
いい仕事に就きながら将来、親の後と財を継いでさらに繁栄していくという、気持ちの良いくらい
真っ直ぐなレールが敷かれているのでした。

いつ頃から彼らの先輩たちが、このハワイ大へ留学する様になったのかは定かではありませんが
歴代この学校で学んだ香港人の間で受け継がれて来た、どうやら『香港ノート』なるものが存在した
らしいのです。

このノートとは、いったいどのような物だったのでしょうか?
実物を手に取って見た事は勿論ありませんが、香港人の友人達から聞いた話を総合するとざっと
こういう風な内容でした。

  1. 一言で言うと教科別データベースである
  2. 教科毎の担当教授の性格、授業形態、テストの出題傾向や問題、難易度などを詳細に分析
  3. 教授の出入りがある度に必ずアップデイトされ、最新の情報になっている

つまり簡単に言うと、この香港ノートにアクセスできる香港人と同じクラスを受講すると、かなり高い
確率で好成績を修めることが出来ると言う事なのでしょう(人生そう甘くは無いか?)。
合理主義な彼らにとって、無理なく無駄なく手っ取り早く、良い成績を修めて卒業し、本国へ帰る。
彼らの結束力と情報処理伝達能力は正直、背筋がブルっと寒くなるような恐るべき力です。
故に世界中どこへ行っても彼ら中国人、特に香港人はたくましく生きて行けるのでしょう。

何かと彼ら香港人と授業が被っていた私は、おかげ様で幾つかの教科に於いて、意外に苦せずして
好成績を残すことが出来たのでした。
私の友人リー君はカウンセラーよりも頼りになる男でしたね。
これを機にではありませんが、香港人に対する私の興味度はぐんぐんとアップして行き、帰国して
からも今日まで長年の間、香港との係わりを持つことになっていったのです。

レストランをはじめ公共交通機関の中であっても、辺り構わず大きな声で喧嘩しているかのように
休みなく話し続けるたくましい香港人。いったい何を喋ってるのかと、一度友人に聞いてみたことが
あります。その答えとは

  1. 人の噂話‐特にお金が絡む話(だれがどれだけ儲けたとか損したとか)
  2. 芸能ゴシップ
  3. 自分の自慢話合戦 VS それに対抗する突っ込みやコケ降ろし
  4. ローカル&世界の時事

もしも広東語が解ればひょっとして楽しいかも、なんて思ったこともありましたが、その友人曰く
そもそも広東語と言うのは文字を持たずに、人々の会話の中から生まれてきた言葉だそうです。
ですから悠久の時代から情報や感情の伝達手段は、ズバリ『 口 』なんですね。
彼らのDNAにはしっかりとこの遺伝情報が刻まれている筈です。
これで何故、香港へ行くとああも賑やかなのか、お解りいただけたと思います。

今から思えばこの香港ノートなるもの、本当は存在しなかったのかも知れませんね。
ハル・ノートとか何とかノートなんて言うと、ちょっと格好よく聞こえますもんね。

折を見てこの香港の話題には、再び触れてみたいと思っています。


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